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利子の面白さ
 中学生の時、銀行の通帳と印鑑を持って、友達に話した「この定期預金にお金を預けると、1年で5%も利子が付くんだぜ」それで皆のコズカイを確か千円単位で集めた。内田君がいたな、斉藤君もいた、5~6人くらいだったか、私が一番多く出したと思う。自分のお金は1年後に全部戻って来るのだから。それを話して皆で銀行に行って、定期預金をすることができた。
 1年後、その連中皆であの銀行に行ってお金を下ろした。ちゃんと10,500円帰って来た。皆にお金を返して、500円がのこった。それでアイスやお菓子や皆で買って食べた。あの当時の500円と言ったら、5~6人思いっきり食べられた。今、年間5%の利子が付いたら、随分いいのになー?
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【2011/04/06 12:33】 カフェでのはなし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
母とアブノーマルな子
 母と一緒に風呂に入った姉が、出て来て「お母さんが泣いてたよ」と私に言った。何を言ったか忘れてしまったが、確か酷い暴言をはいたのだと記憶にある。
 子供の頃から「この子はアブノーマルだから心配でね」と母に言われていた。アブノーマルと言われたんだからアブノーマルになってやろうじゃないかと思ったが、どうすれば良いのかそれが分からない。まー今でもノーマルな人間ではないとは思うが。
 小学生の高学年の頃、母の財布から時々お金を盗んだ。どうにも随分悪い子だったのだ。そのお金で駄菓子屋に行った。チョコレートで大きな箱に指で押すと破れて当たり外れが出てくるのがあって、数カ所開いていたと思うが、後の全部をお金を払って開けてみた。書いてある特賞が一個も出て来なくて、こう言う物はそうなってるんだと分かって二度とこの遊びはしなかった。刀だとか、お菓子だとかを買って、友達を連れて皆にあげた。家の近くの友達を連れて駅まで行って、タクシーに乗って家まで皆を連れて帰ったこともあった。タクシーの運転手も私の事を覚えていた。
 ある日、風邪を引いたかで寝ていた時、母に隠していたお金を見つけられて、酷く叱られた。アブノーマルと言われても仕方が無いな。
 5人兄弟で男女男女男と随分うまく生み分けたものだとよく思う。それも3年4年4年3年と間がちゃんと計画したかのような間隔がある。父がそのくらい帰って来なかったんじゃないと誰かが言った。兄二人がブラジルでだったか、料理屋で大喧嘩になったと言う話しを聞いた事がある。その料理屋の女将が「良いですねーどちらの方がお母様が好きかって喧嘩されるんですから」との事だった。
 上の兄は大学卒業後ブラジルで元気で居てくれるが、二番目の兄は大学卒業後アメリカの大学を卒業、アメリカ企業に就職後、その日本支店に帰って来たが50歳の若さで、父と同じ胃がんで亡くなった。
 母はある時相談した占い師に「最後は一番下のお子さんに見てもらいますよ」と言われたと、何かあるごとに私に言った。そうなった。

 私が始めて魚が美味しいと気付かされたのは、確か大学生の頃だと思う。母が旅行に行ったお土産に買って来た目刺しを食べた時だった。これは感動物だった、本来の作り方でちゃんと作ったものは、本当は美味しい物だったのだと、始めて知った。そう言うと、母は自慢そうに笑った。
【2011/04/06 12:03】 カフェでのはなし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
強い父と、情けない息子について
大学生の頃、父は長い闘病生活を送っていた。何度も東大病院に入院し、時には家族が交代で病室に泊まったりもした。それでもあまり危機感を感じていなかった私は、今思えば随分いい加減な生活をしていた。二番目の兄と母親は父が癌だという事を、家族にも隠していたからということもあるのだけれど。
 その頃、父が以前から関係があった神田駅のガード下で何故か「一幅」という飲み屋をやっていた。私はそこで皿洗いのアルバイトをしていた。伯父さんが店長だったけれど割合一生懸命働いた(つもりだった)昼、病院に行ってそこから神田でアルバイト。板長の息子(中卒くらいだったか)も居て、「お兄ちゃんも泊まってよ」と言われて、一緒に2階で泊まった事があった。神田駅のガード下だから、夜遅くまで、朝は真っ暗な時から山手線が上を走るのだから、眠れたもんじゃなかった。
 このガキがいたずら者で、閉店後、胡椒を両手に持って振り回しながら店の中を走り回る。吸う空気中が胡椒だからたまったものじゃない。板長につかまって、思いっきりのげんこつをくらっても、へらへら笑っていた。
 この時期毎日のように病院に行っていたが、ある日彼女を見舞いに連れて行って、帰りに父親がよく行っていた寿司屋に行かせろとせがんだ、その時の父の何とも言えない顔を今でも覚えている。
 神田駅ガード下の「一幅」のバイトの最後の日、」板長が「最後だから、何か喰いたいもんあるか?」と言われたので「もつ煮込みが思いっきり喰いたい」と言ったら山のように盛られた皿が来て、何時も盗み食いでちょくちょく食べていたので、とても美味かった。

病院に泊まっていたある日、夜中に父のうなるような声が聞こえた、苦しそうなその声に起き上がると「大丈夫だ寝てなさい」と言われ、もうろうとした中でしばらくいたが、父のその苦しそうな声がやまない。ぼーっとしたまま看護士室に行って伝えると、すぐに父のベッドに行ってくれた。手術後の癒着が原因だった。その時の辛さに耐える父の強さに驚かされた。
 ある時から、胃を通さずに腸から栄養を取らせる為に、腹に穴をあけて管を入れた時も、表情を全く変えず、痛さをこらえていた事も驚きだった。その後退院して家で過ごすようになると、この腹からのペースト状の物を作って入れるのが私と姉の仕事となった。それが1日に3~4回時間が決まっていて、段々間に合わなくなったりする。その事が、今でも父に申し訳なくて、度々思い出すのだ。病院から貰った粉を煮てペーストにする。時間が無いからさます時間が無い。今考えればさます時間くらいどうでもな事なのだけれど。
 もうこれ以上、その時の状況を書く事が出来ないが、父のとても強い精神力を見させられた思いがする。

あー!あの父の夢の、千葉の何処かで本当に牧場をしていたらと考えると、私にはその想像の風景がはっきり見える
【2011/04/05 18:07】 カフェでのはなし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
不安が深まる原発
近年私たちは、何につけてもどうにかなると思って来た。ところがどうにかしなければ、どうにもならないことが起きた。近年私たちは、前例がないと言えばそれで仕方が無いと諦めされて来た。ところが、前例がなかろうがどうにかしなければならない災害が起きた。
水素爆発で骨組みだけになったら、あれは張り子のような物でその下は頑強な壁で囲んであるのですと 福島原子力発電所は言った。スリーマイル島の原子力発電所でもそうなような円筒形のいかにも原子力発電所と言うような、丈夫そうな物じゃなくて良いのかなと、本来の必要な丈夫さではなかったのではと不安になってしまった。
原子炉の中の水が減ったから塩水でも良いからかけろ。それで水が増えるなら、もう既に原子炉に穴が開いてたんじゃないか?上からかけただけで高濃度の放射性ヨウ素の水が溜まる訳がない。無知な私が考える事だからそう簡単なことじゃないかもしれないけれど。
【2011/04/03 15:23】 カフェでのはなし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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