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思い出 先生の話し
 小学校の時の先生は担任の先生以外にも色々な先生にお世話になった、と言うより仲良くなった。現在になると色々批判があるのだけれど、私も今の学校には問題が多すぎると思うけれど、私たちの頃は、戦後の自由教育を先生達は四苦八苦して、子供と関わってくれていたと思う。おばちゃん先生の島田先生は、楽しい先生だった。生徒を皆呼び捨てで呼んだ。(今だったら、喜んで噛み付く親がいるだろうな)
 ある日島田先生が私を呼んだ「ヤマカワ!これ食べる?」チューインガムだった。学校でお菓子を食べられる事などある訳が無かったから、それも先生がくれるのだからしっかりだまされた。パッチンガムだったのだ。
 またある日は、最高の日だった。島田先生は皆に「これはプープークッションと言います。これは銀座の金太郎と言うおもちゃ屋で買って来たのよ」あのパッチンガムも金太郎で買ったらしい。それを応接室で◯◯先生にやるから、皆気がつかれないように外から見ていろというのだ。皆応接室の掃き出し戸を少し開けてクラスの連中がそっとまっていた。
 「◯◯先生ちょっとご相談があるのですが、そちらにお座り下さい」と島田先生が男の先生を連れて入って来た。そこに座ったとたん『ブゥ~!』クラスの皆が一斉に「ワーッ!」と言って大笑い。「でも、私のは上品な音でしたね」とその先生が言った!私のいたずら好きは島田先生のおかげです。
 島田先生の家にも遊びに行ったし、家庭訪問では来るのが楽しみだった。

中学校では、馬鹿が付くほどの真面目な松本先生がいた。クラスの皆が松本先生を好きだった。学校の帰り道にあるお好み焼き屋さんで食べているのを見つかって、明くる日松本先生に職員室に呼ばれて、怒られた。「分かったか?」と言われて「はい、学校の帰りにはよりません」と言ったら「違うよ!君たちだけで食べ物屋に行っちゃいけないって言ってるんだ。しばらくここで正座して考えなさい」生徒に小言を言うのも、一生懸命頑張らなければならないような先生だということがよく分かった。
 私は自分の気持ちを書き残そうと「私だ!」というノートを作って詩とも言えないような物を書いた。
 度々松本先生に見てもらっていた。先生が交代で毎朝何かを話す時間があって、そこで「3年生のある生徒の詩です」と言って私の詩?を読んでくれた。
 東逗子の先生の下宿に泊まりたいと家に電話した時、父がどうしてもダメだと許してくれなかった。「ダメだ」とあまり言った事の無い父のその言葉に、何故か嬉しさを感じた。その毅然とした声が好きだった。
 その後、先生の吉祥寺の実家まで遊びに行った事があった。当時つきあっていた彼女の家がすぐそばなのが分かって電話して面白がった。泊まった明くる日、吉祥寺のジャズ喫茶ファンキーに行った。スピーカーのすぐ横に座ってしまったので、何も話しができなかったのを覚えている。今でもあの松本先生の仕草を思い出す。必死になって私たちの事を考えて悩んでくれた、馬鹿真面目な松本先生だった。

 大学時代、版画家の斉藤寿一先生とデザインの岡田先生には多くの物を学んだ気がする。豊田先生も優しい先生で、今でも年賀状のやり取りをさせて頂いている。
 大学卒業直前の1月に父を亡くした私は、入社直後から1ヶ月ほどか山形に行かされ、心細い思いをした。その時、岡田先生にまるで父親に出すような葉書を送ってしまった。1ヶ月後家に帰ると岡田先生から葉書が来ていて、日にちからすると、私が送ってすぐの返事だった。その励ましの言葉は覚えていないが、まるで父親からのような言葉に、涙が出てしまった。
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【2011/03/31 19:05】 カフェでのはなし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
信頼が無くなってしまった。あったはずなのに。
アルバイトやパートというのがあるのに、それよりも企業が責任を負わないで済む、派遣社員という物を、誰かが作った。ちょっと申し訳ないと思ったのか、3年以上勤めたら正社員にしなければならないと決めたから、雇う方も最長3年などと平気で言う。国への信頼が無くなってしまった。あったはずなのに。
 医者は、患者一人に診察は5分以内にするから、聴診器をあてなくなった。医者が少ないから劣悪な仕事になった。どう考えたっておかしい、病院の外にある薬屋。医者への信頼が無くなってしまった。あったはずなのに。
 まだ生きている人を置き去りにして死なせてしまった警察。痴漢や未成年者との卑猥な行為をした警察官。ストーカーの被害届があった情勢を守れない警察。警察への信頼が無くなってしまった。あったはずなのに。
 学校も信頼が無くなってしまった。あったはずなのに。
 「前例がない」と言えばそれで済んでしまう裁判所(裁判所だけではないな)。
 何かがあると、何でもかんでも止めてしまう。どうにか早く動かしたいなどとは思わなくなって、何かあって責任問題になるより「今日中の運行はありません」と早々と決めてしまった、あの地震の日の、もと国鉄。今JR。
 毅然とした物が無い、責任を持たない社会。ゆるんでしまった日本。
【2011/03/27 14:53】 カフェでのはなし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
線路の無い黒い2両電車 その2
 凄まじい針のように尖った岩が集まってそそり立つような、ものすごい絶壁と透き通るような青い海が見えてきた。その針と針との間をくねくねと、とても上手にくぐり抜けて行く。
 今まで見た事の無いような、美しいお祭の村を通り過ぎ、土壁や石壁の建物が並ぶ随分古そうな街に入ると、通りは石畳で、線路はその通りに沿って進んで行く?「線路を走ってる?」

 何時しか眠ってしまった私は、電車の止まる音で目を覚ました。車内は大分込み合っていて、降りようとした隣の男が私に話しかけた。「面白かったねー!また会いましょう。何時もこの電車でしょ?」と言って降りて行った。
 乗客が大分減って少なくなった社内を見渡すと、数人が私に笑顔で手をふって見せた。次の駅で私は降りた。
【2011/03/21 16:29】 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
線路の無い黒い2両電車
 何時ものように職場に行く為に電車に乗った。晴れていて気持ちがいい。運良く座れたので、うとうとしているうちに、電車は地下に入ったので、そろそろ降りる駅が近いなと思った。
 ふと目を覚ますと、明るくてもう電車が地下からぬけ出ている事が分かる、まずい!寝過ごしてしまったらしい。何処だろうここは?
 車窓から見た風景は、今まで見た事の無い街だった。車内放送が「次は終点◯◯駅です」いやー終点まで来てしまったのか。まったく知らない駅だ。電車が止まって、降りて行くと私と同じように乗り越した乗客が、私を含んで5,6人いた。電車の運転手に聞くと「この電車は戻らないんだよ。戻る電車はあそこに見える、線路の無い黒い電車なんだけど」と言う。
 見てみると丘の上のこの駅から、なだらかに降りて行った所に、それらしい黒い2両連結の電車があった。運転手とその助手らしい二人が「あの電車に乗って下さい」「しばらくしたら出発しますから」…と言ってから「アレッなんていう奴らだ、走り出しちまったぞ」確かにその電車はゆっくり動き出していた。運転手が「しょうがないなー!乗って下さい、追いかけますから」私たちは急いで乗って来た電車に戻った。
 電車は丘を段々降りて行ったのだが、まったく追いつかない。その内、車窓からは山裾に広がる畑や、池や、林が見え、ゆっくりと曲がりながら流れてくる川を渡って電車は走った。家が見当たらなかったが、さほど不思議には思わなかった。それは綺麗な景色だった。いいなーあの川で釣りがしてみたいな、2,3日ここいらへんに泊まって歩いてみたいな。そんな事を考えながら黒い線路の無い電車に追いつくのを俟った。
yume 運転手とその助手らしい二人は、とても気の良い人たちで、私たちに楽しそうに話しかけた。「この先に面白い所があるんだよ、ナッ!」「うん そうそう!あそこで一度止まりますか?」何だって?電車をかってに止められるのか?
 しばらくして林の中に入って行くと、家が数軒見えて来た。その1軒の家の前で電車は止まった。
そこでは、外に出した机に黒い物が山のように積まれており、売っているおじさんがいた。「これは何だ?いやに硬いな」そう言うと、運転手が「これねー、おっきーでしょ!ここいらへんで取れるナマズなんだよ。干してあって美味しいんだぞ」と言って小さな固まりを自分も食べながら私にくれた。
 「ウムッ美味しいよ、なかなかいいじゃない!これがナマズなの?」「あのおじさんが作ってんだけどね、なかなか良いでしょ」見るとおじさんは、ちょっとだけにやりとした。
 そのおじさんの向こうには、煉瓦ばかりで出来た家があって、奥の方には小さく「バー◯◯/メニュー◯◯」と書いてあって、手前の部分は、カウンターより大分低いくらいの高さの煉瓦でできた壁があり、中は厨房らしい。何だかヴェトナムかアジアの何処かの町の食べ物屋のような建物だ。
 そのおじさんが「こりゃー俺じゃなくて、向こうにいるかみさんが作ってんだよ」指差した先は、道の反対側のこれも煉瓦作りの家で、機嫌の悪そうなおかみさんが座っていた。「ありゃーべトナムの女なんだよ」運転士が言った。「アーそれでか!」ナマズを食べた事の無い私なのに「珍しい味だしな」などと言ってしまった。何だか楽しい一時だった。他の乗客達も楽しそうに食べたり喋っていたりした。

 しばらくして、黒い2両電車は走り出した。…何時の間にか追いかけていたはずの線路の無い電車に乗っていた。確かに乗り心地が違う。運転手もその助手も何も言わなかった。それからもこの二人は、楽しい事や面白い事や沢山の話しをして、我々を楽しませた。「今の所まで1軒も家を見なかったけど?」と聞くと「アァ、あの林より前には人が住んじゃいけないんだよ」
 車窓から見える風景はまだまだ何時までも素晴らしかった。
 もう職場に行かなければ、などとは考えなくなっていた。   つづく

今朝見た夢より
【2011/03/20 13:14】 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
想い出 小・中・高校生時代 9
5人兄弟の末っ子何て言う物は、もう甘え放題?そうだったかなー?
私にとって最も尊敬する存在である父の事を話したい。

小学校に行くようになってから、父は毎朝車で(タクシー)私を学校に送ってから駅に行っていた。実のところあまり覚えていないのだが、数ヶ月経ってから母親が先生に言われたらしい「お宅のお子さんは毎日遅刻して来ているんですが」それで大騒ぎだったらしい。
何となく自分の頭の上の方でそんな話しをしてたような、くらいにしか覚えていない。つまり遅刻するという事が、そんなに大きな問題だとは思っていなかったという事のようだ。
低学年のころ、父の会社の近くの「鉄道博物館」に連れて行かれた事を覚えている。ずっと父の側にいられる事が嬉しかった。「鉄道博物館」はさほど覚えていないが、帰りにレコード屋に行ってドーナツ盤を4~5枚買ってもらったのが、なぜなのかは今でも分からない。
それから浅草にも連れて行かれた。これは父親の青春時代の世界だったからのようだ。酔っぱらっていい機嫌になると「岩に凭れ~て ものすごいひ~いとは てっぽかつう~いで」と三文オペラ?をよく歌ったのだった。
その時の父の気持ちは、私が上の娘をスペインに連れて行って、バルセロナを一緒に歩いたときのあの気持ちだろうと思う。

高校生になって授業で柔道があった。わりと好きだった。父親も柔道を大分やっていたらしいのだが、ある夜、布団の上で父親に押さえ込みをした。父親はへらへら笑いながら、何時の間にか逆になって、まったく身動き出来なくなった。悔しくて泣いた。あの時、父親は嬉しく思ってくれたかなーと…
柔道部に入ろうと思ったが、先生が「足が悪いと左右の発達が偏ってしまうので止めた方が良い」と言われてあきらめた。

先日、あの大震災後の計画停電の際、やる事が無いので机の中を整理した時、懐かしい封筒が出て来た。それがこれ!子供の給料袋
中学生ころからだと思うのだけれど、毎月末に父親が小遣いをくれていたのだが、何時も「もうやったじゃないか」とか、とぼけてなかなかくれない。母が「お父さん!いい加減にしなさいよ!」と言うのだが、それでもなかなかくれない。そこで姉と相談して僕らの小遣い袋を作った。この袋は昭和42年度とあるから、高校3年の時の物だと思うが、何故かもらうと父親のはんこかサインがその月の欄に入る。この習わしは高校卒業で終わったようだ。しかし3,000円とは随分貰ってたんだな!父親のサイン…懐かしくて涙が出る。

父が亡くなったのは、私が大学を卒業する年の1月末だった。あれからもう40年弱、その間、父に喜んでもらえるような事を何もできなかった。元気だった父も、病床の苦痛の中、見守る私に、もう寝なさいという。私にとっての父はまるで侍であった。
今のこのおもちゃ屋をしている私を、苦笑しながら上から見ているのではないか
【2011/03/19 16:44】 カフェでのはなし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
想い出 サラリーマン時代8
父のおかげで、幼児教育関係のF社に就職ができたのだけれど、当時労働組合が出来たばかりで、関わらないようにと即山形に1ヶ月ほど行かされた。
父親が1月に亡くなったばかりだし、心細いし、出張手当などでは生活はできないほど、家に「金をくれ」とも言えなくて、大学に入学時に何口とか(何とか金とか言ったかな?)を本来なら大学に寄付するような物なのだろうけれど、それを返してもらって、山形に行った。
山形には、国鉄(当時)好きの三船君と、今でも仲良くしてもらっている昇さんとの3人だった。営業所の先輩達は皆良い人ばかりだった、佐藤サンが二人居たな、その一人の佐藤サンが去年奥さんと店に来てくれてとても嬉しかった。
なにしろへまばかり、幼稚園に行って注文を書くのがめちゃくちゃ。先輩達は何も文句は言わず、広い畑に真っすぐ続く道で「電信柱の間隔が何メートルあるか、車の距離メーターで計ってみよう」何て言って気持ちを和らげてくれたり、今思えば感謝せねばならない人たちだった。
しかし、この不安に満ちた状況は、すぐに胃潰瘍になってしまって病院に行った。点滴をする看護婦が下手で、腕がふくれあがってしまった事を覚えている。
本社に戻って、希望は開発部だったのに制作部という所に配属になった。そこで7年紙と印刷、製本などのノウハウを覚える事が出来たが、昼食のあと皆で喫茶店に行くのだけれど、ちっとも会話が面白くない。
芸術学科の学生の頃は、仲間と喫茶店に行って話すのは、まるで喧嘩のようで、何でもかんでも本気でぶつけ合ったが、ここでは「◎◎週刊誌にこんな事が書いてあったぞ」と言う話しになる、でもだからどうかが話されない。
ある時先輩の一人に「××先輩が『分かる分かる』とよく言われますが、そんなにツーカーで気持ちが分かるんですか?」と聞いた事があった。そう聞かれた先輩は「そうだねー」と言っただけだった。それで良いのか?と思った。
開発に行きたくて、コンパスと三角定規を持った自分の絵を描いてマッチに印刷して、会社中配ったり、社長室の灰皿にそのマッチを何時も置いてくれるよう司書の女の子に頼んだりした。入社7年目にその希望は敵ったのだが…
32年勤めたが、おもちゃ屋をやるために55歳で退職をした。この間ずっとサラリーマンと言う仕事もこの会社も嫌で仕方がなかった。しかし食べて行かなければならないし、毎月給料をもらっていると、そう簡単には辞められない。
とは言うものの多くの先輩にお世話になり、多くの事を勉強させてもらったし、自分にとってこの会社勤めは意味が無かったかと言えば、とてもそんな事は言えない、それどころか感謝の気持ちで今はいっぱい。
【2011/03/03 18:34】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
僕のキャデラック
先日、隣のお店の青年が「60年代街で見たクルマたち(アメリラ車編)」と言う本を課してくれたキャデラック

あー!なんと素晴らしい車なんだろう。「僕のキャデラック」と書いてしまったが、けっしてこの車を持っていた訳ではない。
幼い頃、父がくれたのかな?父の会社の社長さんがくれたのかな?長さ30センチほどの鋼鉄の(当時から丈夫だと言う事で車に使用している鉄板を使用とか言われた)このキャデラックのおもちゃを大事にしていた。
本当にこの形かどうかあまりはっきりはしないのだけれど、そう!このマーク、そうこの後ろのカーブ。キャデラックはエンジン音がしないというので、中にははずみ車が入っていた。スゥーっと走って行く。舐めるようになで回していたっけ。
ばかだね!色をグレーに塗ってしまって、分解してしまって、何時の間にか何処かに行ってしまった。

やっぱり自動車はこの時代のキャデラックだよ!



著者様すみません、コピーして掲載してしまいましたが、文字を入れたのでお許し下さい。

しかし、ヘアーサロンの青年達は素晴らしい!彼らの友達はこんなl車を持っていたのだから。
こんな写真も撮らせてくれてんだから!
フォード
【2011/03/01 13:13】 カフェでのはなし | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
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